Tihara Tetuzo (1849〜1931)
茅原鐵蔵の年譜
嘉永 2(1849 ) 
6月9日 大和田村(旧金井町千種)茅原惣十郎家の長男として誕生する。
明治15(1882 )   33才
志を立てて上京し、農商務省の編纂委員織田完之について農学を修める。
明治16(1883 )   34才
祖先伝来の農業を以って国本を培養せんことを期し、郷に帰り主として農談会を組織して改良の急務を説く。国儒円山溟北先生其挙を賛し維宝と命名す依って維宝園と号す蓋し之を経文の稼檣維宝とあるに取るなり。
明治17(1884 )35才
佐渡に帰り地方農談会を組織して農業改良の大切さを説く。 新潟県を含む三県連合の品評会に米と大豆を出品して農商務大臣から表彰される。
明治18(1885 )   36才
植田五之八、橘善吉、児玉長内らと相談して新保村に「佐渡牧畜会社」をつくる。鉄蔵は佐渡を日本のデンマークにしようと考えていた。佐渡第三区農事通信委員となり、東京駒場の農科大学に入り農事の実習に励む。従来三叉だった備中鍬を改良して四叉の鍬をつくったり肥料用の胴鰊の干物を粉砕する器具を発明した。
明治19(1886 )   37才
佐渡で最初の農産物品評会を大和田校で開催する。
明治20(1887 )   38才
佐渡地方の米作が不良続きだったので、この原因はそれまで使ってきた種子に問題があると考えた鉄蔵は、新しい品種の種子を作付すればよいと考え、「北溟雑誌」に本州の優良な稲の種子を取り寄せ無償で農家に配ったのだが、一向に新しい品種が増えないので調べてみたらその籾を米にすって食べていた人が多かったというあきれた話が残っている。本荘了寛が「北溟雑誌」発刊のために北溟雑誌社を創設し、茅原鉄蔵は北溟雑誌社の代表人となる。
明治21(1888 )   39才
「北溟雑誌」にクヌギの種子を極安価(壱升六銭)で頒布した。クヌギは何れの土地にも能く成育し其の所用も多いと考えてのことである。相川町で郡の水陸物産共進会を開催し人びとの視野の拡大に尽力した。
明治22(1889 )   40才
明治23(1890 )   41才
千種夜学会を起こし青年をして消防組を設けしめポンプを購求する。豊後糯より良種を選出して平山と命名し米商をして北海道に輸出試食せしめて好評を博し他国産より価格を向上せしむ。内国勧業博覧会に郡の代表として玄米を出品し、宮内省お買上げの栄誉に浴する。横井時敬博士のすすめにより実地経験家の指導を受けるために1年余り全国を回るという機会を与えられた。
明治24(1891 )   42才
明治30(1897 )   48才
帝国農家一致協会総裁邦憲王より権講師に推薦される。本郡農会より農事督励委員農芸委員を嘱託され塩水選・短冊苗代・正条植接樹果樹の栽培・桑苗什立浮塵子螟虫の駆除予防法を教示した。
明治32(1899 )   50才
「人智の未開と社会の変動等に関し収支補わざるため終に解散する」の広告を出し「佐渡牧畜会社」を解散する。
明治42(1909 )   60才
県地主協会は「農事改良功績者」として表彰される。
明治44(1911 )   62才
大日本蚕糸会より奨励委員を嘱託される。
大正7年(1918 )   69才
郡農会の副会長に推され通俗講話師を嘱託される。
大正11年( 1922)   73才
佐渡実業団体総合会主催となる農事功労者の表彰に於いて銀盃を贈呈される。
大日本報徳社より講師に推薦され、川茂・堂釜・椎泊・梅津・吉井・泉などに報徳社を創立する。
昭和3年( 1928)   79才
郡農会に於いて御大典の記念事業に農事功労者として表彰される。
昭和6年(1931 )   82才
9月10日、82歳をもって生涯を閉じる。
辞世の句
  「さそわねど今年も逢ふは月の友」
 茅原鐵蔵は1849年(嘉永2年)6月9日大和田村の茅原惣十郎家の長男として生をうけた。 明治維新の頃に二十歳を迎えることになるから、時代の転換を身をもって体験したわけである。 長じて小学校教員助手となったのだが、1882年(明治15年)彼が34歳のときに発心して上京すると農商務省の農書編纂委員織田完之について農学を修めた。
 1884年(明治17年)佐渡に帰った鐵蔵は、まず手始めに地方農談会を組織して農業改良の大切さを説いた。 やがて鐵蔵は植田五之八・橘善吉・児玉長内らと相談して新保村に佐渡牧畜会社を設立した。 また鐵蔵は1886年(明治19年)、佐渡で最初の農産物品評会を大和田で開催し、それが成功すると相川で郡の水陸物産共進会を開催して人々の視野の拡大に尽力した。
 鐵蔵はまた常に牧草の種子を懐中し、歩きながら道端に蒔いていたとも伝えられている。 郷里にあっては明治26年、大和田に千種夜学会(研智会)を起こして青年たちの知徳向上を図った。鐵蔵は先の視察旅行の見聞を「漫遊日記」と題して自ら社主を務める 『北溟雑誌』46号(明治24年8月発行)以下に順次寄稿している。 この見識が佐渡の有志者に与えた影響は大きかったといえるだろう。
 鐵蔵は文化面でも、土器の発掘や郷土史の研究にひとかどの力量をもっており、明治20年本荘了寛が『北溟雑誌』発刊のために創設した北溟雑社の代表人を引き受けている。 また鐵蔵は、民俗学者柳田国男の主催する『郷土研究』誌はの投稿の常連であり、農業の将来の発展をみながら過去の先人たちのつくりあげた伝統についても深い理解と共感を抱いていた。
 鐵蔵はまた俳諧も嗜んでいた。 鐵蔵が病に臥した昭和4年の春、「茅原一湖翁当病平癒祈祷」興行の「俳諧之連歌」歌仙一巻の扁額が大和田の薬師堂に奉納されている。 仕事の同志で俳句の友でもある川上喚涛の筆になるもので、そこには喚濤をはじめ三四人の連衆が名を連ねていて、鐵蔵が俳諧仲間からも慕われていたことが伺われる。   「金井を創った百人」より抜粋
【誕生から青年期の鐵蔵】
 茅原鐵蔵は1849年(嘉永2年)6月9日大和田村の茅原惣十郎家の長男として生をうけた。 明治維新の頃に二十歳を迎えることになるから、時代の転換を身をもって体験したわけである。 長じて小学校教員助手となったのだが、1882年(明治15年)彼が34歳のときに発心して上京すると農商務省の農書編纂委員織田完之について農学を修めた。 
 これは異例の晩学ともいえることだが、彼が東京で何を考え、どのようなことを学んだかは、その後島内に牧畜会社を興したことによくあらわれている。 鐵蔵は農業の革新を図ろうとしていたのだ。 1884年(明治17年)佐渡に帰った鐵蔵は、まず手始めに地方農談会を組織して農業改良の大切さを説いた。 やがて鐵蔵は植田五之八・橘善吉・児玉長内らと相談して新保村に佐渡牧畜会社を設立した。
 しかし、当時の人々の食生活はこの会社の先進性についてこれず、1899年(明治32年)には「人智の未開と社会の変動等に関し収支補わざるために終に解散する」という広告を出すに至ったのである。 鐵蔵は佐渡を日本のデンマークにしようと考えていたのだが、動機はきわめて単純なものでヨーロッパの農業をそのまま日本に移植しようとしていたのだった。 この試みは斬新的ではあったのですが、危なっかしい面ももっていた。
 今の日本の農業が何故このようになっているのかを考えることが先決だったのに、最初から「日本は遅れている」ということで先進地の技術を導入しようとしたのである。これは鐵蔵に限ったことではなく、当時日本の各地で行われた新式農法の多くは失敗に終わっていた。 1885年(明治18年)鐵蔵は佐渡第三区農事通信委員となり、東京駒場の農科大学に入り農事の実習に励んだ。このとき従来は三岐(みつまた)であった備中鍬を解良して四岐(よつまた)の鍬をつくったり、肥料用の胴鰊の干物を粉砕する器具を発明したりした。
 1887年(明治20年)に鐵蔵は、当時佐渡の稲作が不作続きだった原因が種子にあると考えて 『北溟雑誌』第1号に「諸国より良性の種子を数多く取り寄せたので、希望者には無代価で分けるから連絡してほしい」と広告を出したところ、多くの人が2升3升ともらいに来た。 しかし実際の作付けをみると少しも新しい品種が増えないので、聞いてみたらなんのことはない、殆どの人がその種籾を米にすって食べてしまっていたという呆れた話が残っている。
 また1888年(明治21年)1月発行の同誌第3号には「くぬぎ種売弘広告」を載せている。 くぬぎはどんな土地にもよく成育し用途も多いのではないかと考えて広く培養を謀ろうとしたのだ。 1890年(明治23年)佐渡三郡連合会は産業振興のために先進地から講師を招くことになり、鐵蔵と農商務省の横井時敬農学博士が講師を選考し、牛馬耕の権威である長沼幸七を島に招いた。長沼氏は福岡県朝倉郡夜須村の人で、明治16年から19年まで石川県珠州郡に招かれて指導していたが、「持立犂(もったてすき)」を使う牛馬耕を初めて島に伝えた。
 さらに長沼氏は接木・挿し木・害虫防除・堆肥増産なども教えた。 いも床による甘藷栽培はこの時から開始された。 長沼の後任として来島した浦山六右衛門は佐渡に永住し、牛馬耕の指導のかたわら犂や泥掃き篭など農具の改良につとめ、佐渡で亡くなった。
 また鐵蔵は1886年(明治19年)、佐渡で最初の農産物品評会を大和田で開催し、それが成功すると相川で郡の水陸物産共進会を開催して人々の視野の拡大に尽力した。 品評会といえば、これより先の1884年(明治17年)、鐵蔵自身新潟県など三県連合の品評会に米と大豆を出品して農商務大臣から表彰されている。 明治23年の内国勧業博覧会には郡の代表として玄米を出品し、宮内省お買い上げの栄誉に浴した。 その年横井時敬博士のすすめによって、実地経験家の指導を受けるために1年余り全国を回るという機会を与えられたのである。
 佐渡を出発した鐵蔵は箱根湯本を訪れて二宮尊徳の仕法を学んだ。 静岡県では岡田良一郎の報徳結社を見学、金原明善にしたがって天竜川上流両岸の植林を学び、さらに土倉庄三郎を訪問して吉野杉・高野桧の造林や紀州海岸の誘魚森林を視察、伊勢で害虫防除を、九州では甘藷の温床育苗・堆肥の製造・二毛作・接ぎ木・挿し木の技術を視察した。
 島に帰った鐵蔵は蓑笠に草履ばきで島内各地をまわって産業の振興と、個人の欲をこえて社会に奉仕するという二宮尊徳の報徳精神や倹約貯蓄の普及に努めた。貯蓄奨励には自らの著作『貯金の勧め』に貯金箱を添えて配布した。 『貯金の勧め』に使用した挿絵版画の原版が今も残っている。
 鐵蔵はまた常に牧草の種子を懐中し、歩きながら道端に蒔いていたとも伝えられている。 郷里にあっては明治26年、大和田に千種夜学会(研智会)を起こして青年たちの知徳向上を図った。鐵蔵は先の視察旅行の見聞を「漫遊日記」と題して自ら社主を務める 『北溟雑誌』46号(明治24年8月発行)以下に順次寄稿している。 この見識が佐渡の有志者に与えた影響は大きかったといえるだろう。
 鐵蔵は郡農会の農業委員を務めながら、種籾を塩水に浸して軽い籾を除く「塩水選」、草を手で取るより能率がよい中耕車、佐渡でも良い果樹がとれる筈という果樹栽培、二化メイ虫防除などの技術指導に尽力した。 鐵蔵のこの数々の実践的な活動に対して、1909年(明治42年)5月、県地主協会は『農事改良功績者』として表彰された。 このとき佐渡の人で一緒に表彰を受けたのは中興の植田五之八と小木の後藤亮秀だった。
 鐵蔵は文化面でも、土器の発掘や郷土史の研究にひとかどの力量をもっており、明治20年本荘了寛が『北溟雑誌』発刊のために創設した北溟雑社の代表人を引き受けている。 また鐵蔵は、民俗学者柳田国男の主催する『郷土研究』誌はの投稿の常連であり、農業の将来の発展をみながら過去の先人たちのつくりあげた伝統についても深い理解と共感を抱いていた。
 大正9年に佐渡を訪れた柳田国男は、鐵蔵に会ったときのことを昭和7年発刊の「佐渡一巡記」で次のように紹介している。 「この地に茅原鐵蔵という『郷土研究』の寄書家があって、大悦びで訪ねて来てくれた。 むつかしい原稿を書く人で、いつも編集者を難渋させ、それを掬んで書き直すと、折々違っていたという小言が来る。よっぽどわからぬ人だろうと思っていると、逢ってみれば大違いで七十幾つだというのに壮年のごとく、はきはきとものを言う人であった。 相手の抱いているずいぶん込み入った不審を簡単な問いの言葉の裏に覚って、そつのない明敏さを持っている。 こういう前世紀教育の完成した人から、文書の採集ばかり続けていたのは損失であった。 もう少しこちらから出て行って、口で教えて貰わねばならなかったのである」
 鐵蔵はまた俳諧も嗜んでいた。 鐵蔵が病に臥した昭和4年の春、「茅原一湖翁当病平癒祈祷」興行の「俳諧之連歌」歌仙一巻の扁額が大和田の薬師堂に奉納されている。 仕事の同志で俳句の友でもある川上喚涛の筆になるもので、そこには喚濤をはじめ三四人の連衆が名を連ねていて、鐵蔵が俳諧仲間からも慕われていたことが伺われる。
 昭和4年の6月には、また郡内の有志者によって大和田寶蔵坊境内に鐵蔵の顕彰碑が建てられた。 碑面に刻まれた「茅原老農紀功碑」は農林大臣山本弟二郎の揮毫によるもの。 ちなみに「老農」とはすぐれた農業者という意味である。
 さそはねど 今年も逢うは 月の友 
 翌年の1931年(昭和6年)9月10日に、82歳で他界された一湖こと鐵蔵の辞世の句である。 病気平癒祈祷句会の2年余り後のことだった。
参考文献: 金井を創った百人 「金井を創った百人」編集委員会
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